責任
- こちらで「専門家」について書いている
- 書いたもののうち、その書きものの中で合理的に納得いかせられないけれども、その書きものを読んで納得する必要のあるものはreferenceを引いておくこと、というルールでreferenceは引いてある。
- なので、referenceと言う制度は
- 過去の「同志」の成果を信じることを求め、
- referenceで引けるものだけを、再現可能なものとして、認める
- だから、referenceで引けるように、共有できるように発表せよ、と言っています。
- 「巨人の肩に乗りながら、巨人のパーツになって行く仲間」の一員としての仕事だよ、ということですが。
- 『文明や人類が滅んでも、記録が残っていれば、他の文明や次の知的生物が解読して巨人の肩に乗れるようにする』ことがこの制度の目的なのでしょう
- あくまでも『知識は善』という前提に立っているということですが。
- 「専門家」とは、「ある範囲」を限定し、その現状を把握していることに、責任感を感じて、その責任感を裏切らない状態を維持している人のこと、と思います
- この状態が「分野のレビューを書ける状態」なので、「きちんとreferenceを引いたレビューが書けること」の確認をすることで「専門家」であることの確認はとれそうです
- 「自分の書いているもの」が「referenceベースのきちんとしたもの」であるかどうかの推敲ができる、ということは、その前提になるのはもちろんですが
- この状態が「分野のレビューを書ける状態」なので、「きちんとreferenceを引いたレビューが書けること」の確認をすることで「専門家」であることの確認はとれそうです
- 「研究者」は「仮説を立てて」「実証」を「試みている」人でしょうか
- 「巨人のパーツになる」ためには、「他人が理解できるように論文が書ける」ということになるのでしょう
- 「専門家 かつ 研究者(論文もレビューも書ける)」もいれば、「専門家」であって、「研究者」でない人もいるし、役割がある。「研究者」だけれど「専門家」でない人は、「仮説」が「独りよがり」になるから、注意が必要になるのでしょう(研究プランを誰かに決めてもらった上での研究とその成果発表ならば、レビューは書けないけれど論文は書ける、という状態になりますか…)。
- そういう意味で、二十数年前の米国の臨床現場で、「臨床の専門家」ってすごいと思いました。自分が責任の持てる範囲に限定しながらも、その範囲での専門家たらん、としていました。
- 専門分化が進み過ぎて、全体を見渡したり、隙間をなんとかしたりすることができずに、問題が発生したことも確かですが
- とはいえ、「専門化する」ことを極めたうえで初めて、隙間大事論とか、全体大事論の意味の大きさもわかるので、「専門家(化)してみる」ことも重要
- さて、この「遺伝統計学メモ」は何を「専門領域」としているのだろう
- 関係する分野のつながりの網羅?